平安時代末期の1185年、源義経を大将とする源氏は一ノ谷・屋島の戦いで平氏を破り、下関の彦島に追い詰め
ました。 吾妻鏡によると壇ノ浦に集結した平氏方の船はおよそ500艘、対する源氏は840艘だったといいます。
海戦を得意とする平氏は追い潮に乗って矢を射かけ当初優勢でしたが、そのうち潮流が反転、今度は源氏が追
い潮となり形勢が逆転したと言われています。 平清盛の妻二位の尼は、「阿弥陀の浄土へ参りましょう。 波の
下にも都がございます。」と幼い安徳天皇を抱いて入水。 平教経は、敵の大将源義経を道連れにしようと義経
の船に乗り移りますが、義経は船から船へと飛び移り逃げてしまいました。 これが義経の「八艘飛び」です。 教
経は組みかかってきた源氏方の兵士2人と組み合ったまま海へ飛び込みました。 平知盛は有名な「見るべき程
のことは見つ。」という言葉を残し入水しました。 安徳天皇の遺体は翌日漁師の網にかかって引き揚げられ、天
皇を祭る赤間神宮に隣接する阿弥陀寺陵に埋葬されたといわれています。