漢委奴国王

 

 弥生時代、日本に稲作が伝わり、集落が生まれ、やがて各地に国が出現しました。 王たちは中国の権力者に使者を送って冊封を受け、交易をしようとしました。 志賀島で発見された金印には「漢委奴国王」と印字されており、奴国王が中国の皇帝に朝貢し、金印を授けられたことがわかります。

 

<奴国>

 1世紀から3世紀前半にかけて存在した、『後漢書』「東夷伝」や「魏志倭人伝」に登場する国です。 現在の福岡市付近に存在したと推定され、江戸時代に福岡市の志賀島で発見された金印によって実在したことが証明されました。 金印は西暦57年、後漢の光武帝から授けられ、 後漢書』東夷伝によると、「建武中元二年、倭奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以てす。」とあります。 

  
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水城

 

 西暦663年、日本は唐・新羅の連合軍との戦争に敗れた百済に援軍を送りましたが、大敗を喫してしまいました。 この敗戦によって日本は朝鮮半島における権益を失い、新羅が朝鮮半島を統一します。 連合軍による報復をおそれた朝廷は、北部九州に朝鮮式の山城を築くよう命じました。 これが水城です。 福岡県太宰府市には「水城」という地名があり、実際にその跡を見ることができます。     

  (写真中央に見える緑の帯が水城)

 

 

 

 

 

 

古代の迎賓館『鴻臚館』

 

 

 昭和62年、福岡城内にあった平和台野球場の改修工事において、遺構の一部が発見され、残る部分も発見されるのではないかと推測されていました。 平成4年まで球場は福岡ダイエーホークスの本拠地でしたが、翌年本拠地を現在の福岡ヤフオク!ドームに移した後、球場の解体工事が開始されました。 平成11年から本格的な発掘調査が行われ、現在も続いています。          鴻臚館は、7世紀後半から11世紀中頃まで使用された外交施設であり、使節の接待や遣唐使などの宿泊所として利用されていました。 しかし、貿易の担い手が中央政府から商人へと変化していく中でその役割を終え、歴史上から姿を消しました。 鴻臚館は福岡だけではなく、大阪や京都にも存在したという記述もありますが、遺構が発見されたのは福岡だけです。

 

『蒙古襲来 ~文永の役~

 

 1268年、大蒙古国(元)皇帝フビライ・ハーン(クビライ・カーン)は、日本に使節を派遣して遠回しに服属を迫りました。 その後も再三にわたり使者が来日していますが、鎌倉幕府はそれを無視しました。 するとついに1274年11月、元と高麗の連合軍が、軍船約900隻、兵約3万の規模で北部九州に攻め寄せ、早良郡百道原に布陣しました。 鳥飼潟や赤坂、百道原、姪浜などが戦場になり、幕府軍は奮戦しましたが、蒙古の集団戦法と「てつはう」に苦しめられました。 しかし、日が暮れると連合軍は自船へと引き揚げ、帰国しようとしました。 晩秋の玄界灘を、その上夜間に渡海しようとしたのです。 連合軍の船は日本海の季節風による暴風のため、多くは遭難し、結果的に幕府軍が勝利をおさめました。 幕府は元による侵攻が再度あることに備え、上陸を阻止するための防塁(元寇防塁 写真右下)を築きました。 

 

 

   

 

『蒙古襲来 ~弘安の役~

 

 1281年6月、元・高麗連合軍の軍船約900隻、兵約4万が再び博多港へ押し寄せました。 連合軍は博多港から北九州沿岸にかけて上陸を試みますが、防塁と射程距離の長い弓矢に阻まれ、攻めあぐねました。 一方、南宋を出港した第2陣(江南軍)は7月中旬以降に連合軍に合流し、博多湾に攻め込もうとした矢先、台風による暴風雨に遭遇してまたもや壊滅的な被害を受け、撤退しました。

写真・図はすべて福岡市博物館常設展示公式ガイドブックより許可を得て転載しています。

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【碇石】

昭和7年、博多港中央波止場付近の海中から、バケット浚渫船「野田丸」によって引き揚げられました。 元寇の際、軍船の碇として使用していたものといわれています。

県指定文化財 

現在は当所1階ロビーにて展示しています。

  

 

 

 

   

 

   
   
 
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