関門海峡について

 

 

関門海峡に刻まれた歴史-4.下関戦争(馬関戦争)

 江戸時代末期、長い間鎖国政策にあった日本でしたが、ペリーの来航によって開国をすることになりました。

しかし、依然国内には開国に反対する声も多く、攘夷論者の孝明天皇は、通商条約締結の勅許を出しませんで

した。 1858年江戸幕府大老職に就いた井伊直弼は、勅許を得ないまま条約に調印します。 折しも貿易によっ

て国内経済が混乱し攘夷の気運が高まると、外国を極度に嫌う孝明天皇の意向を受けて、国内の攘夷派と朝廷

は結びつきを強めていきました。 井伊大老はこのような動きに対し、弾圧を加え(安政の大獄)、その結果攘夷

派の反感を買った大老は桜田門外の変で暗殺され、このことによって幕府の衰退ぶりが浮き彫りになりました。 

 1863年、攘夷論の急先鋒だった長州藩は、馬関海峡に砲台や軍艦を配備して海峡を封鎖し、同5月10日、現在

の北九州市田野浦沖に停泊していたアメリカ商船に砲撃を加え、これを周防灘に追い払います。 続いて23日に

は仏艦を攻撃、さらに26日にオランダ艦にも砲撃を浴びせています。 オランダ側は、鎖国中も長年交流を続けて

いたことから攻撃されることはないと考え、通峡していたということです。 

 同年6月、アメリカ軍艦が報復のため馬関海峡に侵入、長州藩の軍艦を攻撃し撃沈しました。 つづいてフランス

の軍艦2隻も襲来し、陸上の砲台をことごとく破壊しましたが、長州藩は奇兵隊を結成するなどさらに軍備を増強し

海峡を封鎖し続けました。

   馬関戦争図                                                           

                  馬関戦争図 藤島常興筆  下関市立長府博物館提供

 

 海峡の通航不能が続いたことと攘夷論によって開国政策が後退するのを恐れたイギリス駐日公使オールコックは

フランス、オランダ、アメリカとともに下関を攻撃する決意をしました。 1864年8月、四国連合軍は17隻の艦隊を組織

し、前田から壇ノ浦にかけてと彦島の長州砲台に猛攻撃を加え、陸戦隊を上陸させて占領しました。 欧米の近代兵

器の前に長州軍は完敗し、以後は積極的に外国を受け入れ、やがて討幕運動を推し進めていくことになります。

  長州砲  長州砲弾

 ▲写真左:長州砲  写真右:砲弾(小さいものは両軍使用のもの 1番右は長州側砲弾 左側の長いものは連合軍使用のもの)                                                       (左右とも)下関市立長府博物館提供

 

 

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