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整備開始前~第二次世界大戦前までの航路整備

明治33年海図平成10年海図

 明治33年頃の関門海峡測量図です。 右側の平成10年のものと比べると、海岸線が埋め立てられて直線的に変

化しているのが分かります。 また、深さに注目してみると明治33年ごろは、海峡内に浅瀬が多数散在していますが

平成10年の測量図では、その浅瀬がほぼ姿を消し、航路として整備が進んでいることがわかります。

 着工当時まず施工したのは、海底土砂の浚渫(しゅんせつ)工事、砕岩浚渫工事でした。 浚渫とは、海底の土砂

などをさらって水深を深くするための作業です。 特に、金伏群礁(かなふせぐんしょう)と与次兵衛岩の2箇所は難

工事だったようで、通常砕岩には大きな鉄のかたまりを海底に落とすことで岩を砕き、砕かれた岩片を浚渫していま

したが、これら岩礁の砕岩には、火薬を使用して爆破することで砕岩していました。 火薬を使うには危険が伴う上、

思うような成果が得られない場合は岩の表面に火薬を塗布したり、岩に穴をあけてその穴に火薬を装填したりとい

う具合にいろいろと工夫を重ねていました。 与次兵衛岩は大正元年から6年まで6年間、金伏群礁に至っては大正

3年から昭和元年まで12年もの歳月を費やしています。 この与次兵衛岩は、名護屋城から大阪へ帰る途中だった

豊臣秀吉が遭難する原因となった岩礁であり、その責任を負って切腹した船頭の名前をとって名付けられた難所で

した。 これら2つの岩礁のほかにも、大小さまざま点在していた浅瀬の砕岩工事は昭和4年までに完了したのです。

※当時活躍した浚渫船(800坪堀バケット式土砂浚渫船 昭和2年撮影)

第一木津丸                         野田丸

木津丸    野田丸

バケット式土砂浚渫船とは、大きな鉄製のバケツのようなものを連ねて海底に降ろし、次々に土砂を引き上げることで

浚渫する船です。

 

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