1.連合艦隊、突如関門海峡を通過
昭和15,6年頃、帝国海軍連合艦隊が関門海峡を通過したことがありました。 当時の旗艦だった長門・陸奥をのぞく
ほぼ全艦隊が通過しましたが、その後問題が発覚します。 軍艦のスクリューで海底の泥が巻き上げられたことで、海
水が濁ってしまったのです。 このように作戦中の部隊が行動の痕跡を残すようなことは、作戦上大変問題があるという
ことで、ただちに関門海峡の海底を掘り下げよという命令が出されたのです。 日本中から召集された浚渫船とその他
作業船は、総勢40隻あまりを数えましたが、軍部が要請した-17m化を実現するにはまだ足りないということで、当時は
まだ一般的ではなかったドラグサクション浚渫船を2隻建造することになりました。 ドラグサクション浚渫船は、当所所属
海翔丸と同じタイプの浚渫船で、海底の土砂を吸いこんで浚渫するものです。 そればかりか、建造し始めた浚渫船の
完成を待たずして、中国上海で稼働していたドラグサクション浚渫船「建設号」を関門海峡に回航させ、海峡の浚渫作業
に従事させたのです。
2.関門海峡のデータは軍事機密だった。
関門海峡を掘り下げよとの命令に従い、浚渫作業を進めていたわけですが、当然、浚渫前と浚渫後には水深の測量
をして確認していました。 この水深データは軍事機密とされ、作業員には箝口令が敷かれたそうです。 軍部がなぜ、
これほどまでに海峡の深度の確保を急がせたのかについては諸説ありますが、昭和12年に呉海軍工場で起工していた
戦艦「大和」を、アジア大陸方面での作戦に出撃させるもくろみがあったであろうことは想像に難くありません。 海峡整
備予算として、当時の国家予算の1%にあたる約5000万円が計上されたという証言もあり、これが事実であれば現在の
国家予算に換算すると8000億円にのぼる大事業だったことになります。 当時の貨幣価値がどのくらいであったかは、
比較する基準がさまざまあり一概には言えませんが、戦艦大和の建造費が当時の金額でおよそ1億4千万円だったこと
を考えれば、関門海峡がいかに重要視されていたかが伺えます。
3.B-29による機雷投下と戦後処理
第二次世界大戦末期、日本の敗色が濃厚となるにつれ、米軍による本土空襲は激しさを増していきました。 関門海峡で
は連日B-29によって機雷が投下され、触雷して沈没する船舶は1日平均8隻に達しました。 機雷敷設は昭和20年3月から
7月にかけて行われ、日本周辺海域には11,080個の機雷が投下され、そのうち半数近くにあたる4,631個が関門海峡付近に
投下されました。 現在もいまだ2000個近くの機雷が残っていると推定されます。 終戦時、関門港及び関門海峡の交通は
まひ状態にあり、その後米軍による機雷掃海が実施され、昭和24年に航路内の安全宣言がなされたのです。 現在、関門
航路を浚渫するにあたっては、必ず機雷がないことを確認するための磁気探査を実施して安全が確認された後、着工して
おります。
※平成20年10月下関市長府沖での機雷爆破